German Wine Lover
『アイスワインに於いては、利用されるワイン用葡萄はその収穫及び圧搾の際に凍結していなければならない。』
---ドイツワイン法第22条5項
1. 氷点下の収穫
夜明け前の葡萄畑は漆黒の闇と寒気に包まれていた。頭上のほぼ真上で北斗七星が瞬いていることが、自分が北緯50度の北国にいるのだということを改めて実感させてくれた。気温は氷点を下回っていることは確実だったが、正確に何度なのかは判らなかった。
「明日21日火曜日、トリーアの最低気温は氷点下7度、最高気温は氷点下1度になる見込み....」
天気予報で知ったとき、これはアイスワインが収穫されるかもしれない、と思った。市街地で氷点下7度なら、葡萄畑のある郊外では確実にそれより寒い。糖分の含まれる果汁は零度では凍らず、氷点下6度から凍り始める。気温が低いほど氷結は堅く、圧搾して得られる果汁の凝縮度は上がるという。そうして濃厚な甘さと凝縮された酸味の独特のワインとなるのだ。
大学の有志で葡萄栽培を体験させてもらっている葡萄畑に、アイスワインを狙って12月に入っても収穫をしていない区画があった。所有者のトリーア州営醸造所に問い合わせたところ、やはり収穫を行う予定だという。作業開始は朝7時半。ただし、気温が予想以下に下がらなかった場合は中止される。だが収穫に立ち会うことは差し支えない、とお許しを頂いた。
朝7時すぎ、少し早めに目的の区画に着いたとき、周囲に人の気配は無かった。静寂の中に葡萄の枝のシルエットが黒々と並んでいる。手近の葡萄を一粒摘んで、口に放り込んでみた。シャーベットのように凍った果肉が舌の上でゆっくりと溶けて行ったが、それほど甘くはなかった。甘みを感じるには冷たすぎる。そのかわり、ほのかに過熟して痛みかけた葡萄の香りがした。
作業開始予定時刻を過ぎても、誰も来る様子はなく、冷気だけが静かにコートを通して染み込んで来た。寒い。寒いが、もしかするとアイスワインの収穫には1度か2度足りない寒さなのかもしれなかった。
「無駄足だったかな....。」
そう思い始めた矢先、ヘッドライトとトラクターのエンジン音が暗闇と静寂を破った。
来た!向こう側の畑の影からバンとトラクターが現れ、防寒服に身を包んだ作業者がバラバラと降り立った。全部で8人。
収穫を入れるオレンジのコンテナを積み下ろし、丁度畑にヘッドライトが当たるような角度に車を動かすと、早速作業が始まった。スキー用の手袋をはめた手で片っ端から凍った房をもぎ取り、足元のコンテナに放り込んでいく。斜面の下草には真っ白に霜が降りているので、軽く足で蹴飛ばせばコンテナは容易に滑って動いた。そうして斜面の上から下へ向かって、早いピッチで作業は進んだ。4つのヘッドライトが唯一の光源なので、房のセレクションは難しい。ただ黙々と、手当たり次第に摘み取っていくのみだ。
空がうっすらと明るくなり始めた8時過ぎ、作業を始めて40分程でおよそ半分が収穫され、休憩となった。トラクターの周りに集まり、トレスターで体の内側から暖をとった。葡萄の絞りかすから造った焼酎で、フランスのマール、イタリアのグラッパにあたる。アルコールは40度前後だが口当たりはやわらかく、ほんのりと葡萄の皮の香りがする。現場の気温は氷点下8度。
「あまり収穫作業を熱心にやりすぎて汗をかくと、休憩中に汗が凍って風邪をひくこともあるよ。」
と醸造所のディレクターであるペルメザング氏。
その朝、河から離れた谷間になっており、冷気が溜まりやすいザールのヴィルティンゲンのシャルツホーフベルク、オーバーエンメルでは氷点下10度前後に達したという。
アイスワインの収穫には畑を選ぶことが必要だ。河に近いと霧が発生して気温の低下を防いでしまう。また、斜面の上部だと寒気が下にすべり降りてしまい、充分寒くならない。造り手はそうした区画ごとの特性を把握し、トライする一角を決める。だが、その区画にボトリティス-貴腐菌とも呼ばれる-が広がった場合、アイスワインは諦めなければならない。出来るだけ健全な状態で氷結した葡萄を収穫することが、濃厚な甘さに見合うだけの酸味をもたらす前提条件なのだ。
一般に、アイスワインの収量は通常の10分の1であるという。その朝収穫した区画だと、普通なら1500リットル前後の収穫を見込めるところ、水分が氷結した状態で圧搾する為150リットル前後にしかならないことになる。
もっとも、長年ワインを造っている造り手はそれも計算に入れて、通常の区画よりも房を多く残して損失を補い、価格設定も経済的に割りのあうレベルにまで引き上げる。さらに、1994年の法改正で認められている収穫マシン-葡萄の畝をまたぐように走る大型トラクターで、洗車機のような按配に両側から木を挟んでゆすって収穫する-を用いれば、人件費は半分以下となる。
アイスワインは『北国の自然と造り手の努力の賜物』と言われているけれど、ある程度までは事実だが、それが全てではない。リスクはあくまでも計算された許容範囲なのである。その価格もハーフボトルで10ユーロ前後(1300円位)から100ユーロを超えるものまで様々であるが、大半は25~50ユーロ前後に収まっている。
晴れていた夜空は太陽が昇るにつれて、いつの間にか霧で閉ざされていた。恐らく快晴の上空とは対照的に、モーゼルの渓谷に沈殿するように溜まった霧だ。太陽が昇るにつれて霧は文字通り霧散し、陽光があたると凍った葡萄は溶け始める。もたもたしている余裕はない。それまで雑談しながら収穫していた作業員達は無口となって収穫のピッチを一段とあげ、午前9時過ぎに完了した。幸い相変わらず空は霧に閉ざされ、氷点下の冷気が葡萄畑を包んでいた。
2. 輸送-圧搾
「おぉい、そりゃないよぉ。」
氷結した葡萄を荷台と後ろに連結した荷車いっぱいに積んだバンの運転席でミヒャエルはボヤいた。葡萄畑から醸造所に向かう途中の農道を、その朝、やはりアイスワインを収穫していた近隣の醸造所のトラクターが故障で立ち往生して塞いでいたのだ。救援が来るまでしばらく待たねばならない。霧の立ち込める谷間でバンを降りると、扉を一杯に開け放って車内に冷気を取り込み、エンジンを切った。荷台の収穫を静かな冷気が覆った。
5分、10分。いくら待っても救援の来る気配は無い。いたずらに待っても葡萄が融けるだけだ。彼は再び車に乗り込むとギヤをバックに入れ、向きを変えてもと来た道を戻り始めた。やや遠回りになるが、町中を抜けて収穫の到着を待つ醸造所へと向かうことにしたのだ。
駅に近付くにつれて霧が晴れ、曇った窓ガラスの外で朝の光が輝いていた。あまり長時間日に当たると溶け始めるのではないかと心配だったが、午前10時にアフェルスバッハの醸造所に到着したとき、中庭の温度計は相変わらずマイナス8度を指していた。大丈夫だ。
圧搾機は醸造棟の入り口近くにスタンバイしていた。オレンジ色のコンテナを両手で肩の高さまで持ち上げては、圧搾機の上に備えた破砕機に投入する。破砕機を通すとシャーベット状の果肉がむき出しとなり、圧搾機のシリンダーの中に積もっていく。
コンテナがすべて空になったとき、シリンダーはほぼ満杯となった。作業員達はシリンダーの蓋を閉じ、早朝から続いた収穫作業にケジメをつけるかのように、四隅からほぼ同時に金属の棒を通して固定した。最後の棒がしっかりと嵌った金属音がケラーに響いた時、辺りはまるで何かの儀式の様な一種荘厳な趣に満ちた。彼らが今年一年間携わってきた剪定から収穫に至る全ての農作業が、その時終わったのだ。
3. トラブル
一人の作業員がほっとした表情で圧搾機のスイッチが入れた。
モーターの唸りとともにシリンダーがゆっくりと回転を始めたその時、メリメリという金属の引きちぎれる音がしたかと思うと、ガキッという破砕音とともに圧搾機は動きを止めた。シリンダーの下半分を覆っている果汁飛散防止用の金属板が、醜くゆがんで傾いている。束の間の幸せな気分は一気に吹き飛び、緊迫した空気が胸を締め付けた。
その朝の収穫が全て入った圧搾機が、壊れたのだ。
なぜそんなことになったのかは判らない。最後に蓋を止めたシリンダーについている金属棒の一部が果汁飛散防止板にひっかかり、回転とともに下方へ巻き込み、引きちぎるように引っ張ったのだ。普通ならあり得ないトラブルである。捻じ曲がった金属板を4人がかりで取り外し、再び圧搾機のスイッチが入れられた。微動だにしない。差し込むコンセントを変えても、ブレーカーのある配電盤をチェックしても、事態は一向に変わらなかった。
作業員達の顔色が青ざめ、無口になっていた。
もしかすると、アイスワインの圧搾をあきらめなければならないかもしれない。
「ケーブルだ、モーターのケーブルがどこかで切れたに違いない。」
機械技師でもあるミヒャエルは金属板が千切れた周囲を探り、筐体の内側を這っているケーブルを引き出した。
あった。金属板と一緒にシリンダーに引っ張られ、断線している箇所があった。工具を取りにいき、破断面を整え、スリーブを取り除き、正しく繋ぎ、絶縁テープで保護する。その様子を、他の作業員達は食い入るように見つめていた。
修復作業の間にも刻々と時は過ぎ、シリンダーの下からぽたり、ぽたりと果汁が滴り始めていた。
『アイスワインに於いては、利用されるワイン用葡萄はその収穫及び圧搾の際に凍結していなければならない。』
融ける前に圧搾しなければ、ドイツワイン法の規定によりアイスワインとはならない。
仮に完全に融ける前に圧搾できたとしても、果汁糖度がベーレンアウスレーゼに相当する110エクスレに達しなければ、アイスワインとしてリリースすることは出来ない。寒気の訪れを12月まで待った収穫が無に帰するかどうかが、ケーブルを撚り合わせるミヒャエルの指先にかかっていた。
「OK!」額の汗をぬぐいながら彼は電源を入れるように合図した。
配電盤の前に立つ一人が作業の安全の為切ってあった主電源を入れた。その場にいる全員が祈るような気持ちで見守る中、圧搾機の傍らに立つもう一人が、一呼吸おいてスイッチを入れた。
ウォーン!低い唸りをたててモーターが再び目覚め、シリンダーがゆっくりと回転を始めた。
やった!という歓声も束の間、今度は反対側の果汁飛散防止板が引っかかってゆがむ音がした。あわててスイッチが切られ、今度は皆で悪態をつきながらそれも取り外し、シリンダーの回転を妨げるものは何も無くなった。
「ゆっくり回さないとそこらじゅうベトベトになっちゃうよ。」
最悪の事態は免れた安堵を露にしながら、誰かが笑いながら言った。
圧搾機のスイッチが再び入ると、剥き出しのシリンダーはゆっくりと回転し、中に詰まった氷結状態の葡萄が均一にならされた。数回で回転は止められ、シリンダー内部にある袋に高圧空気が送り込まれ、圧搾が始まった。風袋とステンレス製のシリンダーの間に葡萄は押しつぶされ、一面に開いたスリットからじわじわと果汁が滲み出て下方へ伝わり、圧搾機の下に設置されている受け皿へと、スーッと筋をひきながら滴り落ちた。
陽光を受けて輝くその滴は、まるで宝石のように輝いていた。
4. 一年の終わり
「さて、どうかなぁ。」
不安と期待の入り混じった面持ちで果汁糖度を測定するレフレクトメーターを覗き込んだ作業員は、すぐにあきらめの声をあげた。「だめだ、こりゃぁ。」吐かれた言葉とは裏腹に、喜びを隠し切れない様子で彼は先を続けた。
「糖度が高すぎて、こいつじゃ測れないよ!」
レフレクトメーターには130エクスレまでしか目盛りがないのだ。メスシリンダーに比重計を入れて測定することになったが、これも同様に130エクスレまでしか目盛りが無かった。そこで果汁を二倍に希釈して比重計を入れると、目盛りは80エクスレを指した。希釈前の状態なら160エクスレである。それはトロッケンベーレンアウスレーゼの基準、150エクスレを超える糖度であることを意味していた。
その朝、トリアー近郊の多数の醸造所でアイスワインが収穫された。
所によってマイナス12度に達した厳寒の中、ザールのJ.P. ライナート醸造所は232エクスレ、ルーヴァーのフォン・ボイルヴィッツ醸造所で212エクスレ、ビショフリッヒェ・ヴァインギューターで207エクスレなど、軒並み記録的な果汁糖度を達成した。
僕が立ち会ったトリアー国営醸造所の公式発表値は果汁糖度170エクスレ、酸度は15g/リットル。
濃厚な甘みに見合うだけの酸味のある、いいアイスワインになることだろう。
圧搾機が動き始めた後、作業員達は休憩室に集まりゼクトで乾杯した。三日後にクリスマス・イブを控え、彼らの表情も明るく和やかだった。「一時はどうなることかと思ったよぉ。」「これで気持ちよく年が越せるってもんだな。」昼近く、すっかり空高く昇った太陽がつくる陽だまりの中で、ゆっくりと時が流れていった。雑談が途切れたところで、僕は街へ降りる人々と一緒に席を立った。「それじゃ、よいクリスマスを!」「よいクリスマス、新年を!」お互いに今年最後の挨拶を交わし、早朝から行動を共にした人々と別れた。氷点下の寒気で白く輝く景色を街へと向かう車の中で、ヴァイナハツマルクトは明日までだったことを思い出した。
そうだ、グリューヴァインを飲みに行こう。この寒さならスパイシーで甘く熱いグリューヴァインは格段に美味しいに違いない。僕は大聖堂の近くで車を降り、ヴァイナハツマルクトの賑わいの中に紛れ込んで行った。クリスマス・イブの二日前、この冬の祭りが終わると、それまで広場を埋め尽くしていた小屋の群れは一夜で姿を消し、いくばくかの喪失感とともに街は静寂に包まれる。そしてクリスマス、新年を迎えるのだ。フローリッヘェ・ヴァイナハテン(クリスマスおめでとう)!皆様よいお年を!
(2004年12月)