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少年はバスの車窓に広がるモーゼルの葡萄畑をじっと眺めていた。
ノイマーゲンにある両親の家からトリアーのギムナジウムまで1時間半あまりかけて通う間、路線バスから見える様々な葡萄畑の眺めは少年を魅了して止まな かった。蛇行するモーゼルの川沿いには平坦な畑があれば、絶壁のような急斜面の、一体どうやってあそこまで辿り着くのかと思わせるような位置にさえ、葡萄 畑があった。
「なんでだろう…?」
それは少年の素朴な疑問だった。平坦な畑なら、トラクターに乗ったまま作業できるから楽だし合理的だ。でも、急斜面をよじ登るようにして作業するのは手間がかかるし、大変なことだ。一体なぜ、そこまでしても急斜面でワインを造るのだろうか?


 

ノイマーゲンの畑に立つアンドレアス・アダム。2010年2月撮影。

「あの頃の疑問が、そもそもの始まりだったんだ」と、アンドレアス・アダムは軽く笑った。そのまなざしのどこかには、今も少年の心が漂っているような気がした。「人はなぜ急斜面で葡萄を栽培するのか。どうしてだか知りたくて、16歳の頃からフリッツ・ハーグラインホールト・ハールトのワインを小遣いで買って飲み比べていたんだ。ませた子供だよね」。ちなみにドイツでは、16歳から飲酒が許される。1979年生まれのアンドレアスはA.J.アダム醸造所のオーナー醸造家で、モーゼルでもっとも注目されている若手醸造家のひとりだ。

アンドレアスの実家は醸造所ではない。父は農業機械のセールスマンで母は専業主婦だったが、母の父、つまりアンドレアスの祖父はノイマーゲンのはずれにあ るドーロン渓谷に1haあまりの葡萄畑を所有するワイン生産者だった。しかし収穫期に1ヵ月近く雨にたたられた1982年の翌年、後継者のいなかった祖父 は葡萄畑を他人に貸して、醸造所を廃業してしまう。


「いいか、アンドレアス。この畑はな、ベネディクト派修道院トーライの 坊さんたちが何百年も自慢にしてきた畑なんだ。19世紀にはモーゼル最高の畑にも数えられていたんだぞ」祖父から幾度となく聞かされた話は一体なんだったのか。祖父の廃業に、もしかしたら、いずれ自分が醸造所を継ぐことになるのではないかという幼心に抱いた朧気な予感を、アンドレアスは裏切られたような気 がしたかもしれない。


1999年にギムナジウムを卒業し大学入学資格を取得したものの、醸造家になることにアンドレアスの心は決まっていた。近年こそラインヘッセンのメッセージ・イン・ア・ボトルを はじめとする若手醸造家団体の成功で醸造家にあこがれる若者も増えているが、1990年代は現在とは様相が異なり、きつい、汚い、儲からないの三拍子そろった不人気職種であったから、醸造所の子供達は家業を継ぎたがらないのが普通だった。それでも「そうか、醸造家か…。ま、おまえの進路としては間違っちゃいないだろう」と、やはりワイン好きであった父は快く認めてくれたという。そうしてモーゼルのVDP加盟醸造所ザンクト・ウルバンスホーフヘイマン・ルーヴェンシュタイン醸造所で修行をはじめた翌2000年、早々に祖父の畑を取り戻し、17年あまり埃をかぶっていた機材で最初のワインを醸造する。21歳の時のことだ。2001年にガイゼンハイム専門大学の醸造学科に進学、2006年まで大学に通いながら葡萄畑の世話をし、ワインを醸造していた。その間もヘイマン・ルーヴェンシュタインでの仕事は続け、ニュイ・サン・ジョルジュのドメーヌ・レシュノーで研修し、卒業後もルーヴェンシュタイン醸造所で働きながら自分のワインを造っていた。在学中の2003年 にはアメリカのワイン商テリー・ティーズに見出され、2004年産でゴー・ミヨに初出品で房ひとつを獲得。当初1haだった面積を現在約3haに増やしているが、需要に供給が追いつかないという。

「1900年頃にモーゼルのワインが世界で名声を博していたことは知っているよね」とアンドレアス。当時のワインリストを見ると、モーゼルのリースリング はボルドーの一級シャトーと同格に扱われていたことがわかる。「それには理由があったんだ。一つは40hl/ha以下という平均収穫量の低さ。効果的な農 薬や合成肥料も無かったから、収穫量は自然に低く抑えられていた」ちなみに、現行のドイツワイン法ではモーゼルの収穫量は120hl/haまで許容されて いる。「それに培養酵母や酵素などの発酵補助物質を使わない、天然酵母による自然な発酵だ」

19世紀から現在に至る栽培醸造技術の進歩は、主として収穫量の増加と安定、農作業の効率化、醸造上の失敗リスクを減らし、生産者に確実な収入をもたらす ことを目指してきた。アンドレアスのワイン造りの基本姿勢は、こうした技術の進歩でかえって失われたものを取り戻すことにある。

収穫は当然手作業だ。容量30リットルの箱に入れた収穫を、トラクターの荷台に積んでそのまま醸造所に持ち込む。「葡萄を食べてみれば、どういう醸造をし たらいいかわかる」というアンドレアスは、その味次第で6~12時間ほど果汁に果皮と果肉を漬け込む。果汁の清澄には酵素や清澄剤を一切用いず、約24時 間静置して不純物を沈殿させ、上澄みを発酵タンクに移して天然酵母で発酵する。収穫を丁寧に扱うから、清澄の際の沈殿物は自然に少なくなるという。逆に傷 んだ収穫を手荒に扱っても、現代の醸造技術なら活性炭やベントナイト、酵素とフィルターで雑味を除去し、培養酵母と酵素で発酵をコントロールすればそれな りのワインに仕立てることはできるが、そこから偉大なワインは生まれない。発酵には伝統的なフーダー樽とともにステンレスタンクの両方を用いる。フィル ターをかけるのは瓶詰め前の1回だけだ。

議論の分かれる天然酵母による発酵だが、アンドレアスによれば生産地域によって酵母の特性が異なるという。彼の醸造所の酵母は果汁温度16℃でも発酵するが、ナーエの醸造家でガイゼンハイムの同期生だったエムリッヒ・シェーンレーバー醸造所の フランク・シェーンレーバーは「信じられないな。ウチのは18℃以上じゃないと仕事をしないよ」と驚いていたという。「モーゼルの冷涼な気候に適応したん だろうね」とアンドレアス。また、モーゼルの果汁の酸度の高さとPH値の低さが、ファルツなど温暖な産地に比べ、雑菌類による発酵失敗のリスクを少なくし ているという。

 

アダムの醸造所は2014年から、かつての祖父の醸造所に移転した。写真は移転後のセラー。2014年10月上旬撮影。

アンドレアスのワインは、ドーロン渓谷のホーフベルクの葡萄畑が持つポテンシャルを見事に示している。ホーフベルクは南西を向いた30~60%の斜度を持 つ斜面で、渓谷を流れるモーゼルの支流ドーロン川の上流から下流に向けて吹き抜ける風がボトリティスをつきにくくする一方、葡萄を乾燥させ糖度を上げると いう。最上の区画はブーメランのようにカーブした斜面の中央付近にある約20ha。1971年のワイン法で周辺の畑を含む80ha以上に拡張されるまで は、そこだけがホーフベルクと呼ばれていた。

青色スレート粘板岩が主体の土壌には珪岩と酸化鉄の層が混じり、ワインに独特な個性を与えている。しっかりとしたストラクチャーでありつつも常に繊細なミ ネラル感を備え、透明感と深みと上品さを併せ持つ。これはアンドレアスの表現だが、試飲した2008 Dhroner Hofberg Riesling Spaetlese feinherbはまさにその通りの味わい。樹齢80歳の古木からのリースリングは繊細なミネラルを備えつつ全ての要素が調和し、透明で品のある果実味に 熟したリンゴのヒント、磨き込まれたような輝きと深みがある。

2008 Dhroner Hofberg Riesling KabinettとSpaetleseは甘口だが甘みが目立たない。グラン・クリュの品格を感じさせる上品な甘さと繊細なミネラル感と奥行きに、絶妙なバ ランスで綺麗な酸味がアクセントを添えている。どちらも素晴らしいが、シュペートレーゼは約10%ほど貴腐が含まれるぶん複雑で余韻が長い。
「酸と甘みの戯れるようなバランスはワインのエスプリだ。ベタつく甘みの退屈なワインじゃなくて、軽やかな緊張感を持つワインが造りたいんだ」というアンドレアスの言葉がよくわかる。

2008 Dhroner Hofberg Ausleseはクリーミーで複雑、凝縮した甘みに干したあんず、蜂蜜のヒント、極めて長い余韻。高貴な甘口と辛口系のフラッグシップの圧搾には、祖父が 使っていた木製バスケットの圧搾機をレストアして使っている。それはいわば、アンドレアスが一貫して追及するモーゼルのワイン造りの原点回帰とともに、 2007年に他界した祖父へのオマージュなのかもしれない。


 

それにしても、アンドレアスがザールのファン・フォルクセン醸造所と同じ 2000年に醸造所を立ち上げたのは奇遇なことだ。ファン・フォルクセンのオーナー、ローマン・ニエヴォドニツァンスキーもまた、ワイン造りとは縁のない 家系からワイン造りを始め、テロワールを表現することを目指して2008年は平均収穫量を34hl/haまで絞り、天然酵母で主に木樽で発酵している。そ してどちらの醸造所も村名、一級畑、グラン・クリュというブルゴーニュ型のヒエラルキーを導入している。そしてまた、忘れられた銘醸畑ヴォルファー・ゴル ドグルーベのポテンシャルを発掘した、スイス出身のダニエル・フォレンヴァイダーが、モーゼルで醸造を始めたのも2000年だ。まるで何か目に見えない力が、彼らを呼び寄せたのかのようではないか。あるいは大きな潮流があって、醸造業界の因習や常識にとらわれない若者達がチャンスを掴み、成功しうる時期であったのかもしれない。


 

A.J.アダム醸造所
Weingut A.J. Adam
Metschert 14
54347 Neumagen-Dhron
Germany
www.aj-adam.com

日本での取り扱い:ラシーヌ(株)

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