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トリーアのホスピティエン慈善連合醸造所のセラー。中世初期は礼拝堂だった。

教会の所有だった葡萄畑

ナポレオンが1803年に修道院所領を競売にかけるまで、教会関連組織はモーゼルの最大の葡萄畑所有者だった。中世から葡萄栽培に適した村には12あるいはそれ以上の教会関係の所有地がひしめき、ゴシック様式やバロック様式の立派な醸造施設が、今日に至るまで村の景観を特徴づけている。

ワインで有名ないくつかの大修道院は、モーゼルのワイン文化の先導者として9世紀のカロリング朝と12世紀のシュタウフェン朝に急速な発展を遂げた後も、17世紀の30年戦争で荒廃した葡萄畑の復興に尽力した。ライン左岸のトリアー選帝侯領における教会関係施設の所有する葡萄畑の割合は、1720年の時点でも25.4%と世俗諸侯の11.2%より多く、選帝侯が100万本以上の葡萄を所有していたのを筆頭に、ザンクト・マキシミン修道院が60万本、次いでヒンメロート修道院の55万6千本であった。

ナポレオンの修道院領世俗化の後、教会関連組織のワインづくりの規模は縮小され、村の教区教会、トリアー高位司教座聖堂(ホーエ・ドームキルヒェ)、司教座聖職者養成学校(ビショフリッヒェ・プリースターゼミナール)および神学部(ビショフリッヒェ・コンヴィクト)、イエズス会が運営していた大学の後継組織であるトリアーのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム、そしてベルンカステル・クースのクザーヌス修道参事会において続けられるのみとなった。

かつて教会所領であった葡萄畑は、畑を所有していた教会や修道院の守護聖人の名前にちなんだ畑名にその名残を残していることが多い。また、畑名に神父から枢機卿へ至る教会のヒエラルキーの反映を見ることも出来る。教会に縁の深い畑名の例としては、キルヒベルク(ハッツェンポート)、キルヒライ(エルンスト)、プファールガルテン(司祭の庭、ブルッティヒ-ファンケル)、プファッフェンベルク(聖職者の山、エディガー)、アルテァヒェン(小祭壇、トリッテンハイム)、アルターベルク(祭壇山、エレンツ-ポルタースドルフ)、デヒャンツベルク(主席司祭の山、カルデン)、ヘレンベルク(共住聖職者の山、19村にある)、ドームヘル(司教座聖堂参事会員、ピースポート)、ドームヘレンベルク(司教座聖堂参事会員の山、トリアー、ゼンハイム、エレンツ-ポルタースドルフ)、マキシミン・プレラート(マキシミン修道院の僧正、カステル-シュタート)、プレラート(僧正、エルデン)、ドームプロブスト(司教座聖堂主席司祭、グラーハ)、ビショフスシュトゥール(司教座、コッヘム)、クアフュルスト(選帝候、エレンツ-ポルタースドルフ)、カーディナルスベルク(枢機卿の山、ベルンカステル・クース)、クロスターベルクおよびクロスターライ(修道院の山、11村にある)、クロスターガルテン(修道院の庭、ライヴェン、ブラウネベルク、コッヘム)、クロスターホーフグート(修道院所領農園、ヴェーレン)、クロスターカマー(修道院の小部屋、ザンクト・アルデグンド)、アプツベルク(修道院長の山、メルテスドルフ、グラーハ)、アプタイ(大修道院、ヴェーレン)、アプタイベルク(大修道院の山、メスニッヒ)、ミュンスターベルク(司教座聖堂の山、カルデン)、ベネディクティーナーベルク(ベネディクト会の山、トリアー)、イェズイーテンヴィンゲルト(イエズス会の葡萄園、トリアー-オレーヴィヒ)、イェズイーテンガルテン(ヴァルドラッハ)、ドミニカーナーベルク(ドミニコ会の山、カーゼル)、カルトホイザーホーフベルク(カルトホイザー(=シャルトリューズ)会の山、アイテルスバッハ)、ドイチュヘレンベルク(ドイツ騎士修道会の山、トリアー、ツェルティンゲン-ラハティヒ)などがある。

農耕中心の時代には、ワインは人生の楽しみに重要な役割を果たすとともに、聖職者にとって禁欲生活の息抜きに欠かせないものでもあったから、ワインを飲むことを正当化する神学的・哲学的口実まであった。中世における神学と薬学の権威であったアルノルド・フォン・ヴィラノヴァ(1240-1311)は「ワインは思索を洗練し、思考速度を速めるものであるから、神学者が好んで上等なワインを飲むのは正しく、その理由も容易に説明できる。なぜなら、彼らは至高にして難解極まる問題に取り組まねばならないからだ」と書いた。また、教会に従属していた葡萄農民は「司教杖の下にはよい生活がある」と言い習わし、ワインによって教会が富むことに貢献したのである。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979

 

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