top of page

ブラウネベルクから見たユッファーの畑。

ユッファー

Juffer

1803年にナポレオンにより所領が世俗化されるまで、モーゼルの葡萄畑の大半は教会や修道院が所有しており、その中には女子修道院もあった。しかし所有者が男であれ女であれ、ワインがもっとも重要な収入源であったことに変わりはなく、また、女子修道院の乙女たち-ドイツ語でユッファーと呼ばれるが、そこには聖職者を坊主(プファッフェン)と呼ぶのと同様、いくばくかの皮肉が込められている-の毎日の食卓に上るワインの量もまた、男の聖職者と同等であった。

モーゼル川沿いにある女子修道院には、とりわけ風光明媚な土地にあるものが多い。たとえばヨーロッパで最も急な葡萄畑がある村として有名なブレムの対岸にあるシュトゥーベンにはアウグスティヌス女子修道会修道院が、モーゼル川が大きく弧を描くツェルの近くにあるマリエンブルクにも同派の修道院が、小高い丘から古城が見下ろすコッヘムにはカプチン派女子修道会が、ツルティンゲン村の対岸にはシトー派女子修道院が、ザール川沿いのなだらかな斜面が囲むフィルツェンにはフランシスコ会女子修道院があった。それらの女子修道院の周囲か、ほど近い位置に彼女達が所有する葡萄畑があったことは、畑の名前が物語っている。たとえばヴァルドラッハのユングフェルンベルクJungfernberg(乙女の山)、ブラウネベルクのユッファー(乙女)Juffer、ベルンカステル=ヴェーレンのノネンベルク(修道女の山)Nonnenberg、プンダリッヒ=ブリーデルのノネンガルテン(修道女の園)Nonnengarten、ネーフのフラウエンベルク(女山)、カルデンのユッファーマウアー(乙女の壁)など。

葡萄畑のある土地の空気には、ワインを味わう喜びが満ちているとゲーテは言う。その一方で、モーゼルの修道女達には守らなければならない厳しい戒律があった。その相反する二つの要素のうち、ワインのもたらす開放的な精神が、いつしか規律の緩みにつながったのか、あるいは宗教革命に賛同する自由な気風を鼓舞したのか、ナポレオンが強制的に世俗化する前に姿を消した女子修道院も少なくない。例えば1478年にコッヘムの、1515年にマリエンブルクの、1640年にカルデンの、1788年にシュトゥーベンの女子修道院が解体されている。

地元の言い伝えによれば、マリエンブルグの信心深い修道女達のもとには、戦乱の世にあって気性の荒い兵士達がしばしば訪れ、見目麗しい修道女を連れ去ることが幾度となくあり、次第に人数が減って行ったという。この女子修道院はトリアー選帝候により1515年に解体されたが、修道院に最後まで残った修道女達には、年金と穀物とともに、毎年一人あたり年半フーダー(約500リットル)のワインが支給されたという記録が残っている。一日1リットル以上の消費は中世においてはありふれたものだが、それが修道女達の心を喜ばせたことであろうことは想像に難くない。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979

 

bottom of page