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イミッヒ・バッテリーベルク醸造所

Weingut Immich-Batterieberg

キンハイム村を後にして、次に訪れたのはトラーベン・トラーバッハだった。

19世紀にワイン商業で栄えた町で、当時の面影が今はホテルとなっている川沿いに立ち並ぶ豪邸にしのばれる。待ち合わせ場所のハリーズ・レストランのテラスには、既にゲルノート・コルマンの姿があった。ラフなヘアスタイルにここ数年は無精髭をはやしていて、昔よりもいくぶんワイルドな風貌になっていた。昔というのは2001年頃、彼がザールのファン・フォルクセン醸造所の醸造主任だった当時のことだ。
 

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醸造家としての自信がその風貌からにじみ出ている気がする。2004年にファン・フォルクセンを辞めてからしばらくフリーで醸造コンサルタントをしていたが、2009年からイミッヒ・バッテリーベルクの経営責任者兼醸造責任者を務めている。

またゲルノートは、2009年のEUワイン市場改革に伴い導入された地理的呼称制度を意味あるものにしようと、モーゼルの醸造所をとりまとめてラインラント・ファルツ州政府に働きかけたり、未だにエルプリングしか知られていないオーバーモーゼルで、石灰岩質の土壌にシャルドネを中心とした複数品種を植樹し、混醸してモーゼルの新たな可能性を模索したり、新たな醸造所団体を立ち上げる気配を見せたりと、様々な活動を行っている。

 

そのころのゲルノート・コルマン(右)とローマン・ニエヴォドニツァンスキー。二人とも若々しい。1999年末にファン・フォルクセン醸造所を13haの葡萄畑とともに購入したローマンと、醸造責任者として二人三脚をはじめてから2年後の2002年頃の写真だと思う。それまでトリーアのビショフリッヒェ・ヴァインギューターでマーケティングを担当していたゲルノートは、ファン・フォルクセンで醸造家としてのキャリアをスタートさせたと言って良いと思う。

で、下が現在。

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出発点

 


さて、どこから話したものか。


確か1999年にトリーアで大規模なワインイヴェントを企画・実行したのは、ローマンとゲルノートを含む若者4、5人だった。後にワイン&グルメ・フェスティヴァルとして毎年4~5月にかけて、モーゼル全域で試飲会やワインと料理をあわせる会が開かれるようになるのだが、その先駆けとなるのがゲルノートらの主催したワインイヴェントだった。VDPの競売会が9月に開かれるオイローパ・ハレに多数の生産者達が集まって、モーゼル上流から下流まで色々試飲出来るという企画だったと思う。当時、トリーアの大規模な試飲会といえば、州立博物館でラインラント・ファルツ州の品評会受賞ワインの試飲会が11月に開催されていたが、基本的にワインだけが出品されており、生産者が不在だった。VDP、ベルンカステラー・リングも6月に新酒試飲会を開催していたが、加盟醸造所しか出展出来なかった。一方、ゲルノートらが企画したのは加盟醸造所団体に関係なく、生産者が出展出来るというイヴェントだった。VDPの競売会の時は客席になるスペースに醸造所のブースが立ち並び、なかなか壮観だった記憶がある。

ゲルノートは1997年から1999年12月までトリーアのビショフリッヒェ・ヴァインギューター(司教座大聖堂、司教座付属神学生寄宿学校、神父養成学校)が所有する大規模な醸造所で販売を担当していた。醸造所の所有面積は、現在は若干減って95haあまりだが、恐らくいつかの協同組合を除けばモーゼル最大の醸造所である。もともと大司教の領地だけに、葡萄畑もシャルツホーフベルクなどグラン・クリュをあちこちに持っている。ただ、そのポテンシャルを生かし切れていないのは残念だ、と地元のワイン通は言っていた。ビショフリッヒェ・ヴァインギューターの畑に写真を撮りに行ったり、トリーア市内の直売所に行ったりすると、しばしばワインスタンドや近郊の村のワイン祭りで顔見知りだったワイン農家の親父たちが働いている所に出くわした。

一時期、ヴュルツブルクのビュルガーシュピタール醸造所の経営責任者だったヘルムート・プルニエンが、ビショフリッヒェ・ヴァインギューターに招聘されて改革しようとしたことがあったのだが、長年販売責任者を務めていた人物 -地元の老人達にお得意様が多い- とウマがあわなかった。プルニエンがテロワールを意識したワイン造りを推進しようとしても、販売部門の責任者がそれを欲しなかったし、それに同調する従業員が多数派を占めた。プルニエンの実家はザールのヴィルティンゲンにあり、両親の葡萄畑の収穫を、ビショフリッヒェ・ヴァインギューターがエゴン・ミュラー家の裏手に持っている圧搾施設で圧搾したことも、公私混同とみられて立場を悪くしたらしい。結局、新参者であったプルニエンは経営責任者の職を辞し、しばらく実家でワインを造っていたが、2009年にザールのアイル村に醸造所を購入してフォルス醸造所Weingut Volsを設立し、現在に至っている。

さて、ゲルノートの話だった。まぁ、そんな保守的な大規模醸造所で3年働いていた訳だが、その前は91年、92年にDr. ローゼン醸造所で研修して、それからハイルブロンの醸造学校で醸造とマーケティングを学び、それからトリーアに来た訳だ。どこでローマンと知り合ったのか、確かブルゴーニュかボルドーをテーマにした試飲会で知り合ったと言っていたような気がする。そこで意気投合して道が開けたという訳だ。

ローマンがファン・フォルクセン醸造所を購入した当時、「あいつはビール会社の御曹司で何もわかっちゃいない」という見方が多かったのだが、少なくともその数年前からワインにハマっていたことは間違いない。また、ローマンはファン・フォルクセンだけでなく、他の生産地域や、モーゼルの他の売りに出ていた醸造所も見て回ったという。つまり、醸造所を起業する決意はすでに固めており、問題はどこでワイン造りを行うか、だった。その際、ゲルノートに相談していたことは想像に難くない。あるいは常にふたりで物件を見て回っては、ワインを飲みながら議論を交わし、将来の夢を膨らませていたのかもしれない。最終的にはファン・フォルクセンを購入することになるのだが、ゲルノートの話をしようとすると、あちらこちらに話が飛んでしまう。困ったものである。

 

ファン・フォルクセンの復興

 

 

2000年にローマンとゲルノートが起業した新生ファン・フォルクセン醸造所は、順調に成功への階段を昇っていった。その一番の秘訣は、恐らく生理的完熟を見極めた収穫であろう。冷涼なザールでは葡萄は熟しにくく、天気の変わりやすい秋口は雨の降ることが多い。すると、ボトリティスをはじめとする黴が繁殖しやすくなるので、一般の生産者はとりあえず-QbAであれ、カビネットであれ-糖度が上がると、なるべく早く収穫する傾向があった。ザールのワインがスティーリィ、あるいは鋼鉄のようだ、と評されていた一因である。

 

その常識を打ち破ったのが、ローマンとゲルノートだった。他の生産者よりも1週間前後遅く収穫にとりかかり、2週間前後遅くまで続けるのが常だった。ワイン村は狭い。ファン・フォルクセンのあるヴィルティンゲンの場合、エゴン・ミュラーの収穫開始が一つの目安になっているらしい。その頃になると、葡萄畑の農道のあちこちにトラクターがとまり、ドイツ語に混じって東欧の言葉が畑の中から聞こえてくる。晴れていれば早朝から日暮頃まで作業は続き、収穫を満載した荷台を引いて、醸造所に向けてけたたましく走り去るトラクターにしばしば出会う。

 

そんな賑わいをまるで気にしないかのように静寂を保っているのが、ローマンとゲルノートの畑だった。遅摘みなので猪や鳥の被害も大きく、畑の周囲には弱い電流の流れる電線を張り巡らし、トンビのような甲高い鳴き声をあげるスピーカーを配置し、森との境界にはネットを張って葡萄を守った。周辺の葡萄農家達は、彼らの忍耐をギャンブルのようだと称し、金持ち息子の道楽だからそんなまねが出来るんだ、あいつら何もわかっちゃいないと肩をすくめた。平均収穫量も一般の醸造所が60~80hl/ha、多いところでは100hl/haに達するのに対して、ローマンとゲルノートはせいぜい40hl/ha前後、少ないときは25hl/ha前後まで落ち込んだ。それでも、いやだからこそ、初リリースの2000年産から彼らのワインは注目を集め、評判を呼んだ。

 

醸造所を立ち上げた翌年から、ローマンとゲルノート達は収量を抑えて完熟を待つノウハウを自分達だけでなく、近隣の葡萄農家達にも、委託栽培という形で伝授し普及につとめはじめた。生産協同組合に納めるよりも良い値段で買い上げ、質の良いベーシックなクラスのワインの生産量を増やし、コストパフォーマンスに優れたワインとして信頼を築き上げて行った。生産の大半を辛口から中辛口に仕立て、畑名なし、村名、畑名、グラン・クリュというふうに、呼称範囲が狭くなるに従って質と価格を上げるブルゴーニュ式の格付けを導入し、甘口は生産のごく一部に留めた。そういう品揃えの生産者は当時、ザールはもちろん、モーゼルにもほとんどいなかった。

 

収穫量を絞り込み完熟したリースリングの収穫は、伝統的な容量約1000ℓのフーダー樽と大型のスロヴェニアン・オークの木樽で、野生酵母により醸造補助物質を使用せずに醸造される。そして醸造にも必要なだけ時間をかける。ベーシックなクラスは5月に、畑名入り以上は8月下旬の新酒試飲会の直前に瓶詰めする。そうやっておよそ100年前からグラン・クリュとして高い評価を得てきたザールの葡萄畑のポテンシャルを、リースリングで表現することを目指したのである。

 

いつだったか、共通の友人と一緒にワインを飲んでいたとき、ゲルノートはサラリとこう言ったことがある。「あれは僕のアイディアで造ったんだよ。本当は僕のワインだったんだ」と。当時、ゲルノートは醸造に専念して表には出ず、経営と顧客対応はローマンの役目だった。ローマンが醸造所のコンセプトを熱く語り、次第にファンを増やしていったのは事実である。ファン・フォルクセンのオーナーはローマンであり、リースリングの語り部であり、醸造所の顔であった。強靱な意志と、繊細な思いやりと優しさと社交性を兼ね備えた、希有な人材である。ローマンと二人三脚で始めた醸造所ではあったが、ゲルノートの気持ちは次第にファン・フォルクセンから離れ、いつか独立して自分の手腕を試してみたいと思うようになったのかもしれない。

 

やがて2004年7月でゲルノートはファン・フォルクセンを去った。その具体的な理由については今回も聞きそびれた。猛暑の夏に見舞われた2003年という特殊な生産年の仕上がりに、ローマンが満足しなかったのだという人もいるが、あくまでも噂にすぎない。二人は今も良き友人としてつきあっているという。

 

ファン・フォルクセンを辞してからすぐ、ゲルノートは彼女と一緒に地中海地方へ約2ヶ月のヴァカンスに出かけた。古ぼけたメルセデスに乗ってローヌ、南仏の海岸沿いの産地、スペイン、そしてポルトガルを巡り、醸造家の友人を訪ね、地中海の太陽とワインで心の傷を癒やした。

クネーベル醸造所で

 

 

二ヶ月あまり地中海沿岸で疲れを癒やして再びモーゼルに帰ってきたゲルノートを待っていたのは、ベルンハルト・クネーベルの訃報だった。モーゼル下流のヴィニンゲン村で1,2を争う醸造所で、ベルンカステラ-・リングのメンバーでもあり、私の大好きなワインの生産者だった。理由はわからないが、クネーベル氏は鬱病をわずらっていたらしい。「完璧なワインの質を絶えず求めることから来る心理的な重圧と負担が、自らの人生に終わりを告げる以外に道を見出せなくしたのです」と、当時奥さんのベアーテ・クネーベルさんは顧客に宛てた手紙に書いている。2004年9月18日、ヴィニンガー・ウーレンの、まるで天まで続くかのような段々畑の上から対岸に向けて伸びる高架橋から、クネーベル氏は空に舞った。残されたベアーテ夫人に醸造経験はなく、二人の息子はまだ学生で、どちらも醸造学の専攻ではなかった。夫亡きあと、どうやってそれまで通りワイン造りを続けることが出来るのか。そして収穫開始は目前だった。

 

そんな時、救いの手をさしのべたのがゲルノートだった。面倒な契約や手続きは後回しにして、とりあえずベルンハルト氏の代理のようにして収穫をオーガナイズし、醸造を行った。ベルンハルト氏はその手法について何も書き残していかなかったので、全てはゲルノートの判断に委ねられた。ベルンハルト氏のワインを分析的に試飲し、ベアーテ夫人にベルンハルト氏の流儀を聞き、何をどうやったら醸造所のスタイルを守ることが出来るのかを熟考した上で、自分のやり方-野生酵母で葡萄畑の個性を表現することなど-を取り入れて行ったようだ。7haの葡萄畑は急斜面の棒仕立てで古木も多く、ゲルノートの才能を生かすにはうってつけの条件を備えていた。当時21歳だった醸造所の次男マティアスは、確か大学で化学を専攻していたが、父の急逝から2週間後には早くもガイゼンハイム大学で醸造学を学び始めた。ミッテルラインのヴァインガルト醸造所とラインガウのペーター・ヤコブ・キューン醸造所で研修し、2009年に卒業して実家に戻った。2010年産まではゲルノートのアドヴァイスを受けていたようだが、その後ゲルノートの手を離れて自立している。マティアスの醸造した2012年産は評判も上々で、モーゼルをリードする若手生産者の一人に成長した。ベルンハルト氏も誇りに思っていることだろう。

 

マティアス・クネーベルの自立は、ゲルノートにも丁度よいタイミングだったように思われる。というのも、彼は2009年にイミッヒ・バッテリーベルク醸造所を任されることになったからだ。任されるといっては語弊があるかもしれない。2007年に倒産したこの醸造所を、自分に任せてくれる出資者を見つけたのはゲルノート自身であり、彼が全てをお膳立てして、その経営責任者と醸造責任者に収まったのだから。その経緯については後述するが、ファン・フォルクセンを去ってから、ゲルノートはフリーランスの醸造コンサルタントとして、クネーベルの他にトリーアのレストラン兼醸造所ヴァインハウス・ベッカーや、アールのエルヴィン・リスケでも醸造とマーケティングを請負い、いずれの醸造所のワインもぱっと人目を引くような、見た目も味も魅力的なスタイルに変身させていた。魅力的といっても厚化粧のやぼったい魅力ではなく、それぞれ果実味の濃度と純粋さを増して洗練された感じに仕上がっていた。いずれの醸造所もコンサルティングは終了しているが、そのノウハウは受け継がれているようだ。

イミッヒ・バッテリーベルクへの道


ゲルノートは既に2004年から、イミッヒ・バッテリーベルク醸造所に目を付けていたのだという。醸造所が倒産するのは2007年のことだが、それ以前から経営がうまくいっていないことは、一部では知られていたようだ。当時オーナーだったバステン氏は1989年に、前オーナーで1425年から代々醸造所を継いできたイミッヒ家から醸造所を購入した。バッテリーベルクという畑名の由来については今更繰り返すまでもないかもしれないが、1841年から1845年にかけて粘板岩の斜面を発破して葡萄畑を造成した際、その爆破音が砲兵隊(バッテリー)を思わせたことからバッテリーベルクと名付けられた。もっとも、ゲルノートによればバッテリーベルクだけではなく、モーゼルの急斜面の葡萄畑-例えばユルツィガー・ヴュルツガルテンなど-は、大抵同じようにして爆薬で発破をかけて造成されたそうで、ここだけが特別な訳ではなく、イミッヒ家がマーケティングを考えてつけた畑名だという。

バッテリーベルクは、エンキルヒ村とトラーベン・トラーバッハの途中の川沿いにある南西向きの斜面で、エンキルヒャー・ツェップヴィンゲルトの畑の中にある1haあまりの区画が、そのまま単一畑になっている。地下200~300mに達する灰色粘板岩の地層の上にある畑の、わずか50cmあまりの表土に粘板岩の砕片と粘土、それに珪岩が混じるのが特徴で、この畑は特に珪岩の割合が高いという。個人的には、土壌に珪岩が混じると果実味に透明感とニュアンスが増す気がする。そしてバッテリーベルクには、樹齢80年を超える自根の古木の割合が多い。斜面の下部には垣根仕立ての樹齢20年前後の若木があるが、それはC.A.I.と名付けたエステートワインに用いている。バッテリーベルクとしてリリースするのは収穫の約60%、全て自根の古木に実った房である。自根の古木は接ぎ木したものよりも成長力が弱いのであまり太くならず、実際の樹齢よりも若く見える、という。
 

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バッテリーベルクの畑。斜面下部の垣根仕立ては若木、中腹から上の棒仕立ての区画が古木。

醸造所の所有する畑の葡萄樹の約80%が自根で、これほど自根率が高い醸造所は、モーゼルでは他にないらしい。ゲルノートに自根と接ぎ木の味の違いを聞いてみたところ、「接ぎ木のワインは直線的で香りに深みがなく、均一で明瞭。一方自根のワインには気品がある。60年代から80年代にかけてはもっぱら収穫量が高い、立派な房が成るクローンが植えられた。これらは自根とは熟し方が全く異なり、緑と黄色の中間程度にしか染まらず、金色がかった黄色にはならない。自根は古木であることが多く、この葡萄樹は古い遺伝的資質を持っている。房も小ぶりで果粒の間隔もあいていて、収穫量も低い。もっとも、自根であるということ以外にも収穫量、遺伝的資質とその多様性、樹齢など様々な要素がからんでくるから、自根の個性は一概には言えない」という。


また、2012年は醸造所全体で22hl/ha、2013年はわずか18hl/haに留まった。「2013年は7.5haの畑を8日間で収穫し終えた。葡萄の様子は10月20日までは全然問題なかったんだ。ところが20日の夜の大雨に続いて21日は朝から21℃という暖かさ。10月の下旬になってからこんなに沢山雨が降ってしかも気温が高いなんて、初めてのことだった」という。ゲルノートの収穫チームは、昼間は大ざっぱに選り分けながら収穫を続け、醸造所に持ち帰ってから夜中までさらに選り分けたという。湿気が多くて綺麗なボトリティスが少なく、圧搾は普通に行ったが、マセレーションは例年より短く、最大で18時間に抑えた。「睡眠時間は毎日3時間程度。きつい生産年だったけど、仕上がりには満足している」そうだ。


 

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ゲルノートがバッテリーベルク醸造所を引き受けたのは2009年のことだが、その当時、セラーは全く空の状態だったという。前のオーナーは、2006年産を醸造した翌2007年に倒産、2007、2008年産は醸造されなかった。その2年間の葡萄はどうなったのか聞きそびれたが、2004年頃に前オーナーのバステン氏にゲルノートが醸造所の購入をもちかけても、その頃はまだ売る気はない、と断られたそうだ。倒産後、負債はゴールドマン・サックス・アセットマネジメントにまとめられたのだが、その提示価格が高すぎて出資者が見つからなかった。一度はうまく運びそうになったこともあったが、結局投資額が大きすぎるとして断られたそうだ。

ところが2008年のリーマンショックが幸いした。資金の必要に迫られたゴールドマン・サックスは2週間で半額まで値下げしてきたのだが、当時ゲルノートにも資金のあてがなかった。そこに朗報を持ってきたのは、醸造主任を引き受けていたクネーベル醸造所の税理士だった。銀行家と電子部品メーカーの資産家二人をゲルノートに引き合わせ、醸造所購入の話がまとまったのだそうである。

 

バッテリーベルクの畑の土壌。灰色粘板岩に珪岩が混じる。

ワインのラインナップ

 

 

イミッヒ・バッテリーベルク醸造所ではファン・フォルクセンと同様に、ベーシックなワインに用いる葡萄の約90%を委託栽培方式で造っている。1841年から1846年にかけて醸造所の礎を築いたカール・アウグスト・イミッヒCarl August ImmichのイニシャルをとってC.A.I.と名付けたワインで、所有する畑の若木の区画の他に、中部モーゼルにあるドーロン・ホーフベルクDohron Hofbergの自根の1haの畑、ザールのオーバーエンメラー・アルテンベルクOberemmeler Altenbergの1haとヴィルティンゲンWiltingen、そしてトラーベン・トラーバッハ周辺のエンキルヒEnkirch、ヴォルフWolf、キンハイムKinheimの畑の収穫を用いている。畑名でリリースしているのはエンキルヒ村の畑(バッテリーベルクBatterieberg、エラーグルーブEllergrub、ツェップヴィンゲルトZeppwingert、シュテッフェンスベルクSteffensberg)で、C.A.I.と畑名ワインの間に複数のエンキルヒ村のワインをブレンドしたセカンドワイン、エシェブルクEscheburgをリリースしているほか、モンテノイベルMonteneubelという畑のシュペートブルグンダーとゼクトも造っている。(注:2014年4月当時)

 

エンキルヒ以外の畑も良い畑で、C.A.I.にブレンドしてしまうのは、本当はもったいないのだが、マーケティング戦略上そうしているそうだ。エンキルヒの畑の中では意外なことに、バッテリーベルクではなくツェップヴィンゲルトの方が1Euro高い値付けで26Euro、バッテリーベルクとエラーグルーブが同格、シュテッフェンスベルクがさらに3Euro安い(2012年産の現地小売価格)。エシェブルクは、いわばVDPのオルツヴァインに相当するが14.5Euroである。けっこうな値段だが、平均収穫量の低さからすると、この位の値付けでないと黒字化を視野に入れて経営するのは難しいのかもしれない。

コストパフォーマンスという点ではC.A.I.にとどめを刺す。ファン・フォルクセンのシーファー・リースリングと似ているが、C.A.I.の方が大抵若干ワイルドな印象を受ける。生産年による個性もはっきりしていて、リリースしたばかりの頃はその欠点も見える気がして、いつもなぜか批判的になってしまう。友人が素晴らしいねぇと感心している隣で、私はなぜかひっかかるものを感じて首をかしげていることが多かった。といっても、それは個人的な思い入れや期待感がそうさせるのかもしれない。しかし半年以上熟成させてから飲むと、そうした欠点と思えたものは大抵消えて美味しくなっていた。

 

セカンドラベルもしくはオルツヴァインのエシェブルクは、約1000年前に現在醸造所となっている建物のオーナーだったエッシEsch伯爵に因んでいる。モーゼル最古の醸造所の一つと言われる所以だ。清澄には3~12時間かけるが、例年は3時間で終えて発酵に入る。あまり綺麗に清澄すると発酵がうまく進まないからだという。私の知る限りだと一晩清澄する生産者が多いが、彼のやり方はかなり短いと思う。その後11ヶ月澱引きせずに発酵・熟成するが、その前提として、最上の畑の綺麗な葡萄が必要なのだそうだ。聞きかじったところでは、フランスの方が清澄にかける時間はドイツよりも短くて濁りが残り、ドイツは完璧に澄むまで綺麗に清澄して、場合によってはフィルターまで使って濁りを取り除く。それがドイツワインをクリーンでスッキリとしたスタイルに、フランスワインに個性と複雑さを与えている一因となっているそうだ。そういう意味では、ゲルノートのやり方はフランス的なのかもしれない。

 

ちなみに、2011年産は葡萄の糖度が上がりやすかったが、生理的完熟になかなか達しなかった年で、85エクスレでも生理的完熟にならず、90, 92エクスレまで待たなければならなかった。生理的完熟Physiologische Reifeとは、2003年頃からモーゼルではしばしば耳にするようになった考え方で、果汁糖度と酸度のみによらない、収穫に最適な時期に到達した葡萄の状態を指す。ドイツでは従来、収穫時の果汁糖度が肩書きの基準となっているように、果汁に含まれる糖分量が重視されていた。ところが、それだけでは発酵後のアルコール濃度の目安にしかならない。十分に香りの乗った、一番美味しい状態の葡萄を収穫することでワインの質も最上のものにするのが生理的完熟で、その判断基準は、果肉から種がはずれやすい状態で、種が焦げ茶色になっていることなどがある。2011年は85エクスレでも未熟で、2012年は逆に低めの果汁糖度でも生理的完熟に達したという。もっとも、2012年は開花期の雨による花震いで、収穫量は22hl/haまで落ち込んだ。しかしアルコール濃度は12%以下と控えめで、理想的な仕上がり。逆に2011年は、収穫量は多かったが、厚みにやや欠けるとゲルノートは評していた。

ゲルノートの目指すもの
 

 

ゲルノートが目指しているのはアルコール濃度の低い、ほっそりとしたスタイルのワインだという。具体的には12%以下の辛口で、その意味では、果汁糖度が低めで生理的完熟に達した2012年産が気に入っているそうだ。

徹底的に選果して、ほっそりとして繊細なスタイルを目指しているので、マセレーションも短めにして切り上げ、圧搾後は適度な濁りを残して発酵用の樽に入れる。樽は数年-確か7年前後マルクス・モリトール醸造所で使った後のバリック樽と、ステンレスタンクを使っている。長期間に渡って亜硫酸を添加せずに樽の中で澱引きせずに熟成させるが、トロッセンのような、完全に亜硫酸を添加しない醸造は考えていない。それには全く異なる考え方が必要で、葡萄の果皮のタンニンを抽出して酸化防止に利用するなど、彼の目指す方向とは別の造り方をしなければならなくなるからだ。それに10年、20年と熟成しても、ある程度の新鮮さが保たれているワインを造りたいんだ、と言う。
 

また、亜硫酸添加量は生産年によって異なる。ゲルノートのやり方では遊離型亜硫酸量35~45mg/Lが目安だが、2012年産の総亜硫酸量約80mgだったのに対して2009年は120~130mg/Lに達した。私は化学(数学も物理も)は苦手なのだが、亜硫酸添加の量を決めるのは遊離型亜硫酸の量で、遊離型亜硫酸は分子状SO2すなわち二酸化硫黄と、HSO3-すなわち重亜硫酸イオンに分かれる。このうち分子状SO2が細菌の活動を阻止・殺菌する機能があるが、ワインのpH値が高いほど、つまり酸性が弱いほど、分子状SO2の割合が少なくなるため、遊離型亜硫酸全体の量を多くする必要がある。必要な遊離亜硫酸量はpH値0.1刻みで異なり、例えば0.8mg/Lの分子状SO2濃度を確保する場合、pH3.4では遊離型亜硫酸濃度は32mg/Lで、pH3.5では40mg/Lとなる。ワインに添加された亜硫酸の一部は糖、アルデヒド、アントシアニンなどと結合し、残りが遊離型亜硫酸となる。つまり、生産年の状況によりアルデヒドが多い収穫だと、そのぶん総亜硫酸量も増えてしまう。(参考:後藤奈美「ワイン醸造の基礎・亜硫酸の話」http://www.kitasangyo.com/e-Academy/b_tips/back_number/BFD_19.pdf

こうしたことを熟知した上で、志のある生産者は総亜硫酸量を減らそうとしている訳だ。いわゆるオレンジワイン-白ワイン用葡萄を赤ワイン醸造と同じくマセレーション発酵したもの-や、トロッセンのような亜硫酸無添加ワインにしても、様々な知識と経験が必要とされる。前任者なり父親なりのやり方をそのまま惰性で踏襲するのではなく、また教科書や醸造学校で習ったことに盲従するのでもなく、自分なりの目指すべきスタイルを考えて、そのためにはどうしたらよいのかを見つけていくのが、個性的で魅力あるワインの生産者に共通する点かもしれない。

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セラーで樽から試飲するゲルノート。亜硫酸添加前の2013年産の畑名ワインは4月末の訪問時点で全て発酵中だった。仕上がりにはとても満足しているという言葉通りで、畑のポテンシャルによる違いも味わいによく出ていたように感じた。
 

温暖化で高アルコール濃度の辛口が増え、とりわけVDPのグローセス・ゲヴェクスにはアルコール濃度13%台のワインが多い。それらは畑のポテンシャルに加えて収穫量も低めに抑えているので、力強く複雑なことが多い。そうではなく、あえて低アルコール濃度でほっそりとした、他の産地ではおそらく造りにくいであろう、モーゼルらしいスタイルを追求しようというゲルノートの判断は、間違ってはいないように思われる。ただ、彼のワインは若いうちはおしなべて堅く、ほっそりとしてミネラル感が明瞭なので、ややとっつきにくいのが難点かもしれない。2013年のツェップヴィンゲルトは、とげとげしいまでのミネラル感で、端正で透明感のある果実味は魅力的だったが、余韻が喉のあたりでひっかかる感じがした。熟成するとこれも消えて、もっと厚みのある果実味が口いっぱいにあふれるようなワインになるよ、とゲルノートは言った。

 

​モーゼルの未来

ゲルノートがバッテリーベルクだけでなく、いくつかの醸造所でもワインを手がけていることは既に書いた。それらは既存の醸造所の葡萄畑とワインの改良といった仕事であったが、もうひとつまた異なった方向性を持つプロジェクトを、ゲルノートは2005年にオーバーモーゼルでスタートさせた。

オーバーモーゼルは、モーゼル川上流のルクセンブルクとの国境沿いに位置し、石灰質土壌と苦灰岩の土壌が広がっている。粘板岩主体の他のモーゼル流域とは性質が異なり、パリからシャンパーニュ、シャブリへと繋がるパリ盆地の地質の一番端っこが、このオーバーモーゼルにあたる。栽培されているのはエルプリングが多く、近年はオクセロワ、ヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、リースリング、シュペートブルグンダーでも良質なものがある。しかし今でも、エルプリングがこの地区を特徴づける品種であることに変わりはない。収穫量が多く、ミュラートゥルガウと大体同じか少し早めに熟す。果皮が薄いので傷みやすいため、生産者は早めに収穫したがるのだという。

ステンレスタンクでクリーンに仕上げられたエルプリングは、ややシンプルでスッキリとしてフルーティな飲み口が魅力で、あまり難しいことを考えずに喉を潤したいときは、これほど美味しいワインはない。チューリップ型のグラスで出される場合もあるが、200cc入りの細身のコップに注がれることが多い。値段も手頃で、醸造所の直売価格がフルボトル一本4Euro以下のことも珍しくなかった。辛口に仕立てられることが多く、もともとはゼクト用の原酒として意味があった。手頃な価格のワインなので、生産者はもっぱら居酒屋の経営で稼いでいたようだ。おそらくワイン造りだけで食べていくことは楽ではないだろう。

対岸のルクセンブルクでは、辛口でスッキリとしたワインやゼクトがもっぱら協同組合で生産されているが、一部にVDP的な醸造所団体が形成され、家族経営の小規模醸造所の個性的なワインも次第に日の目を見つつある。近年はザールのVDP加盟醸造所フォン・ヘーフェルの若主人マキシミリアン・フォン・クーノウが、このルクセンブルク版VDPのコンサルティングを行ったり、有名女性シェフのレア・リンスターとコラボしたりして、ルクセンブルクのワイン産業を支援している。


さて、話がいつものようにわき道にそれたが、ゲルノートは2005年に、オーバーモーゼルの2.6haの貝殻石灰質土壌の葡萄畑に6種類の葡萄を植えた。そのうち90%はシャルドネで、他にヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、ピノ・ノワール、ヴィオニエ、そしてムスカテラーである。クローンではなくマサルセレクションで増やしたブルゴーニュやジュラなどの苗木で、自根ではないが成長力の弱い台木を使い、小さな果粒が特徴だという。

 

その畑ラングスウアラー・ブリューダーベルクLangsurer Brüderbergは、斜度50~75%の南向き急斜面が細かな区画に分割され、一部にエルプリングが栽培されていたが、その大半は長年荒れ果てて、キイチゴなどが繁り放題に茂っていたという。その畑から全ての樹を引き抜いて整地し、上記の複数の葡萄樹を植樹した。混植ではなく、区画に分けて品種別に栽培しているが、収穫は一度に行い、一緒に圧搾・醸造する混醸ワインである。発酵はもちろん野生酵母で、醸造手法はバッテリーベルクとかわらないようだ。

2005年に植樹したこの葡萄畑から、2009年に少量実り、グラスバルーンで試験場造した。2010年には一樽しか出来なかったが、2011年、つまり植樹から6年目に、ようやくリリース出来るだけの収穫を得ることが出来た。2012年はリリース済みで、2013年は9月にリリース予定だ。

「ブルゴーニュの物まねをしても仕方がないと思ったんだ。だからシャルドネだけじゃなく色々な品種を植えた。僕の考えでは、このあたりはシャルドネに一番向いている。ヴァイスブルグンダーでは香りや構造がややシンプルであまり面白くないけど、シャルドネは実に様々なセレクションした苗木があって、その中のいくつかは素晴らしいものだ。また、オーバーモーゼルのピノ・ノワールに感心したことがないので、造ろうとは思わなかった。

シャルドネで良いワインを造ろうと思ったら収穫量を絞るしかないが、大抵は80hl/haまで欲しがる。ヴァイスブルグンダーやオクセロワで80hl/haだと、せいぜいニュートラルな脇役の、清潔で退屈なワインにしかならない。また、シャルドネは成熟の見極めがとても難しい品種で、油断すると過熟してカリフォルニアにあるような、重くて厚ぼったいワインになってしまう。かといって未熟な果実は未熟な味になる。まさにこの時だ、という収穫のタイミングを見つけるのが難しいんだ。だから2011年産にはあまり満足していない。突然暑くなって4、5日タイミングが遅れてしまった。2012年はその点満足している」という。

2011年産はワインの中に太陽の暖かさが宿っている。トロピカルフルーツの香る、厚みのある軽やかなボディで、シャルドネとともにヴィオニエ、ムスカテラーのヒントが目立つ華やかな味わい。2012年はバランスの良いフルーティな辛口で端正な果実味。やはりヴィオニエ、ムスカテラーが華やかさを添えていた。混醸らしい複雑さと緩やかさに、おでんの出汁のような和やかさが漂う。
 

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ちなみにゲルノートのこのプロジェクト・ワインは、リンケ醸造所の名でリリースされている。サイトを見ると(http://www.rinke-weingut.de/)オーナーは、2006年に異業種から参入して醸造所のオーナーになったとあり、写真には裕福そうな壮年の夫婦が少しぎこちなく葡萄畑のそばに佇んでいる。彼らももしかすると、イミッヒ・バッテリーベルクと同様にゲルノートが見つけた出資者なのかもしれない。

 

そこまで考えて、ふと思った。もしかするとファン・フォルクセンのローマンもまた、ゲルノートに引き込まれるようにしてオーナーになったのかもしれない。「あれは僕のワインだ」とファン・フォルクセンのことを語ったゲルノートの言葉の意味は、あくまでもこれは私の推測にすぎないが、そのあたりにあったのかもしれない。ところが、ローマンはゲルノートの想像をはるかに超えて、大きく逞しく成長してしまった。それがゲルノートのある意味では悲劇であり、同時に彼が様々なプロジェクトを各地で展開する契機となったのかもしれなかった。あくまでも、私の想像にすぎないが。

ゲルノートの現在

 


2011年2月末、ゲルノートは当時ラインラント・ファルツ州ワイン農業担当相だったヘンドリック・ヘリングの元を数人の仲間と共に訪れ、モーゼルの160軒あまりの生産者-大半はVDPモーゼル、ベルンカステラー・リング加盟醸造所と農業青年団の会員達-の署名を添えた一通の陳情書を手渡した。2009年8月にEUワイン市場改革に伴う地理的呼称制度が導入され、保護地理的呼称付きワイン(略称g.g.A.)と保護原産地呼称付きワイン(略称g.U.)がドイツワイン法にも適用されることが決まった。1971年のドイツワイン法以来、収穫時の果汁糖度を基準にした格付け制度が採用されていたところに、それとは全く異なる思想の、フランス・イタリア的な地理的基準をもとにした格付けが持ち込まれることになった。コストパフォーマンスに優れた新世界(北米・南米・オーストラリア・ニュージーランドなど)からの輸入ワインが躍進する一方で、南仏ワインの過剰生産を解決するための減反補助金の負担に音をあげたEUが、パルミジャーノのチーズやパルマの生ハムなどの農業製品と同様に、EU産ワインの地理的呼称を、マーケティング上の付加価値として保護するべく制定した呼称である。保護原産地呼称付きワインは、保護地理的呼称付きワインよりも厳密な管理下におかれ、より高品質な製品であることを保証するシステムなのであるが、これは一方で1971年のドイツワイン法が、いかなる畑であっても適切な品種と栽培方法をとれば、高い格付けのワインを生産することが出来ることを認めているのにそぐわない制度である。
 

あたかもドイツワイン法に黒船が来航したかのごとき印象を与えたこの地理的呼称制度はしかし、ドイツの優れた官僚によってすっかり骨抜きにされ、単なるお飾りになってしまった。つまり、g.g.A.はラントヴァインに相当し、g.U.はクヴァリテーツヴァイン以上に相当するという、現状のワイン法の中身にほとんど手をつけることなく、単に枠組みを付け加えただけの変更に留まった。しかも2011年には新しい呼称のエチケットへの記載は任意ということに決まったから、消費者にもまったく伝わらないままで良いことになった。「エクスレからテロワールへ」という、2000年頃からVDPの畑に基づく格付けシステムの制定とともに提唱された理念が、2009年のEUワイン市場改革でドイツワイン法にも取りこまれるかと期待した、私のような脳天気なワイン好きは、いささか肩すかしを食らったような気がしたものである。

ゲルノート達が陳情に訪れた2011年2月は、地理的呼称制度をどのようにドイツワイン法に取り込むかの議論が深まりつつあった頃だったと記憶している。彼らは改正をより意味のあるものにするために、単一畑と紛らわしい、いくつもの村の複数の単一畑を包括したグロースラーゲ(集合畑)を廃止し、グロースラーゲを名乗る際に、周辺で最も知名度の高い村名(Leitgemeinde)を名乗ることが出来るという制度を止めて、地域、村、畑と収穫の範囲が狭くなるに従ってワインの品質も価値も高くなるような法制度を定め、買いたたかれる一方で将来性のない樽売りワインから脱却して、急斜面でのきつい労働が報われるような制度をつくるべきだと主張した。陳情書や当時の新聞記事は、フェイスブックのGernot Kollmannの2011年3月と2月の記事に見ることができる。


当時、ヘンドリック・ヘリング農業担当相は、生産地域の未来を真剣に考えている生産者達がこれほど大勢いるのは非常に心強い、あなた方の志はきっと新しいドイツワイン法に反映されるでしょう、といったことを述べていたのだが、すぐには何も変わらなかった。たとえば斜度30%以上の急斜面の葡萄畑のワインを「シュタイルラーゲ」Steillageもしくは「テラッセンラーゲ」Terrassenlageとエチケットに表記出来るようにはなった。しかし、グロースラーゲは継続され、地域・村・畑ごとに異なるヘクタールあたりの平均収穫量を定めることもされず、プレディカーツヴァインとクヴァリテーツヴァインは150hl/ha (WeinG §9 (3))という上限は、制限が無いに等しかった。

「陳情書を提出した直後は十分に手応えがあったんだ」とゲルノートは言った。「議会で採決される一週間くらい前までは、うまくいきそうに見えた。CDU、SPD、緑の党が共同声明を作成したくらいで。けれど採決直前で、(グロースラーゲでもっぱら収益をあげている)大手の醸造会社や醸造協同組合が激しいロビー活動を展開して、ひっくり返されてしまった。がっかりしたよ。結局政治家たちは票を失うのが怖かったんだろうね」

陳情書に好意的だったヘンドリック・ヘリングが、それから3ヶ月後の2011年5月にワイン農業担当相を降板したことも響いたのかもしれない。2009年頃、全国のVDP高品質ワイン醸造所連盟もゲルノートと同じ趣旨の、呼称範囲が狭まるに従って収穫量を絞り込むシステムをドイツワイン法に盛り込むべきという声明を出して、ラインヘッセンの若手醸造者団体メッセージ・イン・ア・ボトルもゲルノートに歩調を合わせていた。一連の動きは法改正に至らないまでも、生産者達の意識改革には影響したはずだと思う。
 

変わりゆくモーゼル

 


モーゼルの住人に冷や水を浴びせた新聞記事がある。
「美しさの中に潜む恐怖」と皮肉めかしたタイトルの、2013年8月23日付けのフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの旅行コーナーに掲載された比較的長い紀行文である。

竜がうねるように深い谷間を悠々と流れるモーゼルと、急斜面に広がる葡萄畑は類い希なほど美しい。その一方でコッヘムのような観光小都市の、あたかも70年代からほとんど変わっていないような古めかしいみやげもの屋や、観光客相手のレストランの想像力に欠ける料理や、自分では飲まないであろうお土産用の安ワインばかりが目につく様子を、辛辣さとユーモアを交えて描写している。その一方でマルクス・モリトールのような、妥協せずに一貫して高品質なワイン造りに取り組む一部の生産者や、やはりごく一部に例外的にオアシスのように点在する、モダンなスタイルのホテルや読者に勧めたくなるレストランがあることを伝えている。ポテンシャルがあるのに、過去の栄光にしがみついて変わろうとせず、渓谷の外側に広がる世界に目を向けて自らを省みようとしない有様が、筆者には非常にもどかしかったのだろう。

モーゼル全体、とりわけコッヘム周辺の住民には、どうやら極めて耳の痛くなるような指摘だったらしい。地元紙では「こんな漠然とした悪口を書かれても困る。気に入らないレストランがあったらその名前を出して批判すべきだ」とか、筆者が訪れた時によほど不愉快な目にあって機嫌をそこねていたのか、などといった怒りや嘆きが噴出し、コッヘム近郊の町バイルシュタインの町長は筆者に対して公式に抗議文を出したほどである。

筆者の指摘はそれほど的外れではないと私は思う。コッヘムからベルンカステルにかけてはモーゼル観光のドル箱地帯で、両岸には著名な葡萄畑がひしめいている。ドイツ人にとっては古くさい、モーゼル観光がブームとなった戦後の高度経済成長期を思い出させる景観であっても、私には古き良きドイツの面影がそのまま残っているようで、とても魅力的に感じられたものである。またワインに関しては、観光地のワインはドイツに限らずボルドーでもブルゴーニュでも、大体似たり寄ったりだろう。本当に高品質な、心に響くものを持つワインは、ワイン好きの店主が熱心にやっているワインバーなりショップに行かなければ出会えず、そういう店は少ないのが普通だと思う。

ともあれ、このフランクフルター・アルゲマイネの記事は波紋を呼んだ。その約一ヶ月後に、記事の中でも言及されたマルクス・モリトール醸造所に約50人の醸造家達が集まって、これからモーゼルワインのイメージをどうやって高めていくかを話し合った。話し合ったというより、あの記事をきっかけにしてとにかく一度集まって、俺たちの心意気をアピールしようじゃないか、といったノリだったらしい。VDPモーゼル、ベルンカステラー・リング、クリッツ・クライナー・リング、モーゼル・ユンガーといった、普段は別々に試飲会を開き相互の交流はこれまでなかった生産者団体が、改装されたばかりのモリトール醸造所のホールに集まり、生バンドも入ってワイン片手に気勢を上げたという。このイヴェントの発起人がゲルノート・コルマンだった。一昨年には各団体をまわって署名を集めたこともあり顔は広い。このつながりを利用して、モーゼル全体でワインとガストロノミーをテーマにした一大イヴェントも構想しているという。念頭にあるのはもちろん、上記の記事の批判への反証であろう。ゲルノートがまだローマンと知り合って間もない頃、トリーアで企画したワインイヴェントも、組織の枠を超えたものだったことが思い出される。


翌2014年のプロヴァインのモーゼルのブースは、例年になく気合いの入ったデザインで、モーゼルの生産者をモチーフにした、今風の写真が人目を引いた。またワイン雑誌Vinumの最新号はモーゼル特集。これらが上記の記事が立てた波紋から生じたのかどうかは定かではないが、いずれにしても、モーゼルの住人の目を少しばかり覚ます効果はあったようだ。
 

大体、ゲルノートのことは語り尽くした気がする。
そうそう、彼は地元のワインジャーナリストやワイン好きを集めて、定期的に試飲会を開いている。テーマはモーゼルの70年代とか80年代、あるいはポルトガルだったりボルドーだったりとてんでバラバラなのだが、ヨアヒム・クリーガーが大抵主催して、会場はエンキルヒのバッテリーベルク醸造所だ。今回私が行った時も、明日の晩にブルゴーニュの白がテーマでやると言っていたが、マインツに移動することになっていたのであきらめた。どうも、彼らがやる試飲会には縁が無いらしい。

ヨアヒム・クリーガーは、かれこれ40年間写真家兼ワインジャーナリストとしてモーゼルを中心に執筆活動を続けている。著書にはTerrassenkultur an der Untermosel (Edition Krieger 2003)や、葡萄畑の四季をテーマにした絵はがきの写真集があるが、昨年末ごろ、もうすぐモーゼルの決定版ともいえる本を出すと言っていたのだが、あれ以来音沙汰が無い。ワイン雑誌では名前を見かけないし、本を何冊か出してもそれだけで食べて行くのは難しいだろうから、何をして収入を得ているのか、ちょっとした謎の人物である。ゲルノートはDr.ローゼンで研修していた頃にヨアヒムと知り合ったそうだから、30年来の友人ということになる。

もうひとり、ゲルノートと親しいジャーナリストはアメリカ出身のドイツ人ハーフ、ラース・カールベルクだ。彼らはゲルノートがファン・フォルクセンで働いていた頃からつきあっているそうだから、これもまた結構長い。ラースのことは以前ブログでも紹介したけど、ラースを建材会社の社長に引き合わせて、モーゼル・ワイン・マーチャントという、北米向けのワイン輸出会社を立ち上げさせたのはゲルノートだった。それは、ゲルノートがクネーベル醸造所を手伝いはじめた翌年あたりだったと思う。モーゼル・ワイン・マーチャントは既にラースの手を離れてしまったが、お陰で彼にはリサーチと執筆する時間が出来て、彼のニュースレーターはおそらく英語で書かれたドイツワインレポートの中でも最もマニアックというか、ラースが自分で言うようにgeekなものだろう。どのくらいマニアックかは、彼のサイトhttp://www.larscarlberg.com/を見ればわかると思う。一部無料で一部有料となっているけれど、年間29Euroのサブスクリプション収入だけで食べていくのは難しいだろう。しかし、英語圏のドイツワイン関係者達には少しは知られる存在になっているらしい。以前ワインアドヴォケイトでドイツ・オーストリアを担当していたデイヴィッド・シルドクネヒトも、ラースのサイトに時々寄稿している。

ともあれ、ゲルノートはこの十数年のモーゼルを変えてきた主要人物の一人ではないかと、私は勝手に考えている。彼らが仲間と一緒に集まって意見を交換しながら飲む中で、モーゼルのこれからすすむべき方向性などが語られ、互いに影響を与えつつ動いてきたのではないだろうか。私の知らないところでも似たようなグループはいくつも形成されていて、それぞれに意見を交わしてきたのだろうけれど、ゲルノートと関わりのある人々やワインと私は、比較的縁があるようだった。そういうところから、私のワインに対する価値観や嗜好も影響を受けている。
 

イミッヒ・バッテリーベルク醸造所
Weingut Immich-Batterieberg
Im Alten Tal 2
56850 Enkirch
Germany

Weingut Immich-Batterieberg

日本での取り扱い:(株)ラシーヌ

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